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試練 [memoirs]


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高校を卒業して、神戸短大へ通っている時、
高校の弓道部で仲のよかった男友達に誘われて映画を観に行ったら、
その数週間後、彼は交通事故で亡くなってしまった。

20代の頃、友人の紹介で知り合った男友達との初めてのデートから
数週間後、彼は自殺してしまった。

アメリカ留学中、大学の寮で同室だったミシェル
私が日本へ帰国後、自殺したことを知らされた。

7年前、夫がとんでもない事件を起こし、私はどん底に突き落とされ、

5年前、私が強盗に襲われ、県内初の裁判員裁判の被害者となった。


その他にも、ここでは書けない辛かった事。


ふ~、いろいろあったな~。


神様は信じてないけど、何かあるたび、
これは、私がより良い人間になるためにに課せられた試練だと
言い聞かせて、乗り越えてきた。

世界中には、もっと凄い試練を与えられてる人がたくさんいるし、
私が経験してきたことなんてちっぽけなこと。

これからも、いろいろあるかもしれないけど、受けて立つしかない。






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年下の彼 [memoirs]

最近、録画して観た映画2本、「愛を読む人」と「理想の彼氏」
どちらも年下の男との恋愛が描かれていました。
しかも、15~20歳くらい年下の男。

感想・・・やっぱ、いいな~、年下。

オッサンが若い女の子にうつつを抜かしていると、このスケベオヤジ、
なんて蔑んだりするくせに、結局私も同じ穴のムジナね。

実は私、独身の頃、7つ下の彼氏がいました。
その前には、20歳年上の人と付き合っていて、ま、不倫だったんですけど
結構ずるずると別れたり戻ったりを繰り返し、5年くらい付き合った後、
私、アメリカへ旅立ちました。

そしてアメリカで知り合ったのが7つ年下の彼氏。
当時、彼には彼女がいたんだけど、なぜか、私になついて来て、
いつも私と一緒にいたがるようになり、いつの間にか付き合いが
始まっていました。

素直に甘えて来るから、もうかわいくてかわいくて。
しかも英語だから、「I love you」だの「You're so beautiful」だの
私を喜ばすようなこと、恥ずかしげもなく言ってくる。
毎日手を繋いで歩いたし、しまいには一緒に暮らすようになりました。

思えば、あの頃が一番幸せだったような気がするなぁ。
それまでの恋愛では経験したことのない、素直な気持ち。

ほんと、ラブラブな毎日だったもん。

私が留学費用を稼ぐために日本へ帰っていた間も、ほぼ毎日電話
してきてくれたし、日本にも遊びに来てくれた・・・のに。

私が再びアメリカに戻ってすぐに彼の所にしばらく滞在し、
その後、別々の大学に通い、そして、別々の道を歩み、結局今、彼は
どこで何をしているのかさえわからない。

あの頃20歳そこそこだった彼も、もう38歳か・・・
結婚して子供がいるのかなぁ。

会ってみたいなぁ・・・
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三姉妹 [memoirs]

私には、7つ違いと5つ違いの姉が二人います。

地元では有名な美人三姉妹・・・とは誰も言ってくれないので、
自分たちでそう言っていました。

姉二人は、歳が近いこともあって仲良しだったけど、
私だけは歳が離れているので、いつも子供扱いされてました。

おまけに両親は、やっぱり小さい子がかわいいから、
必然的に私の事をかわいがり、それがきっと彼女たちの妬みを買い、
よく意地悪されたものです。

お前は、橋の下から拾われてきた子だの、
お前の鼻が低いのは、お父ちゃんがお前の顔のうぶ毛を剃ってる時に
間違えて鼻も一緒に剃り落としたからだ、などと、
あることないこと、いや、あり得ないこと言われて、
私が泣くと、「変な顔~」と笑われ、
きっと私の性格が歪んだ一因は姉達にあるに違いない。

かなり大人になってから、
「うちら、ホント、K子にすごい意地悪しよったよね~。ごめんね~。」
なんて言ってたけど、今さら謝られても・・・だよね~。

小さい頃仲が悪くても、特に姉妹は大人になったら仲良くなるもんだ、と
誰かが言っていたけど、今でも別に仲良くありません。

ほとんど私が帰省した時にしか話さないし、用事がない限り連絡取りません。

真面目な姉達にとって、私はとても異質な存在のようで、
話もあまり合いません。

でも、仲が悪いわけでもありません。

いなくなったら淋しいわけでもありません。

なんだかよくわからない存在です。



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姐御肌 [memoirs]

先日、友人から、彼女の夫に関する悩みを相談されました。

別の友人からも、ずっと、不倫、離婚の悩みを相談されています。


他の人には話せないけど、私には、相談しやすいらしい。

もしかしたら、3年前の事件で、私が夫とのことで
かなり辛い思いをしただろうと察しての事なのかもしれません。

私は、誰にも相談しなかったけれど。

友人の話を聞いていると、共感できるところもあって、
実は私もあの時こうだったんだよ、ということが言えるから、
私にとっても、心の中に溜まった膿を出すことのできる
貴重な時間なのかもしれません。


思い起こせば、昔から、私はよく友人に頼られました。

神戸の短大に通っている時、高校時代の友人が
私の下宿にしばらく滞在していたことがあります。

彼女は、大阪看護学校に通っていたけれど、
いろいろ問題があって、精神を病んで、私のところにやってきました。

結局彼女は、看護学校をやめて、故郷に帰り、自殺未遂を繰り返したり、
知り合って間もない人と電撃結婚をした後、夫と子供を置いて数か月間家出したり、
その夫を自殺で亡くしたりと、波乱に満ちた人生を送っています。

神戸で働いていた頃は、高校時代の友人M子が
仕事を辞めて私のアパートに転がり込んできたし、

その後、同じ職場の友人が、失恋したうえ、家族ともうまくいってなくて、
しばらく一緒に居させて欲しい、ということでアパートにやってきました。
かなりの鬱状態だったんだけど、ある日、私の部屋で手首を切って自殺を図りましたが、
幸い、未遂に終わりました。

神戸の仕事を辞めて、恋人のいる岡山に数か月住んでいたことがあるんだけど、
その時も、高校時代の友人Bがやってきて、
泣きながら不倫の悩みを打ち明けて帰って行きました。

岡山を引き払って、いったん、島根に帰ってきたんだけど、
当時は、不倫の時代、とでもいいましょうか、どいつもこいつも不倫してました。

その後、私はまた神戸に舞い戻ったのですが、
その時勤めていた英会話学校の生徒さんで、ちょっと不良な女子高生がいて、
彼女が家出をして、私のアパートにやってきたことがあります。

彼女の母親に電話をして相談し、落ち着くまでしばらく私のアパートに
いることになりましたが、高校を卒業してからも、よく私を頼ってやって来たものです。


人の心の痛みをわかろうと、親身になる。

きっとこれは私の最大の長所だと思います。


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私、今昔 [memoirs]

一週間の帰省を終え、今日戻って来ました。

ゆうべは、高校時代の友人と3人で夜中2時まで遊び、
久々にハメをはずしました。

その友人たちは高2のクラスメイトで、
昨日は来ていなかったもう一人の友人と4人で、
交換日記をしていた仲。

卒業してからも連絡を取り合い、よく遊んでいたけど、
結婚出産を機に徐々に距離ができ、
年賀状だけの仲になりつつありました。

3人が揃ったのは、かれこれ7年ぶりくらい。

まず、一目見て、「全然変わってないじゃ~ん!」

話をして、「相変わらずだね~!」

きっと見た目は、かなりおばちゃんになってるんだろうけど、
お互い歳取ってると、その辺の感覚が鈍ってしまうんだろうね。

高校時代やその後の思い出話に、爆笑また爆笑。

だけど、意外だったのは、
高校時代に彼女たちが抱いていた私の印象が、

「ぼ~っとしていて、クール」 だったこと。

ぼ~っとしてた?
自分では、かなりしっかりしていたと思うんだけどなぁ?

クール?  
なんだか冷めた雰囲気で、親しくなる前は、とっつきにくかったらしい。


かと思えば、去年だったか、高校の弓道部の同窓会では、
同級生の男女それぞれ5人ずつ、10人が集まったんだけど、
私が誰かの話につっこむたび、

「相変わらず、こまっちゃん、つっこみがきついけど、おもしろいね~」

なんて、言われて、え? 私、高校時代からこんなだったっけ?

ってすごく不思議な気がしました。

私としては、高校時代から、いろいろな経験をして、
精神的にもかなり成長をしたし、昔とは違うと思うんだけど、
友人たちに言わせると、変わってないらしい。

ん~、 これでいいのか?

ま、 これでいいのだ。








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親殺し [memoirs]

時々、十代の子供が親を殺す事件が起こる。

私にはわかるんだ、そういう子たちの気持ち。

私も中学生の頃、両親とはほとんど口をきかず、
部屋に閉じこもって、呪いの日記を書いてたことがあるから。

今、考えると、ただのわがままだったのかもしれないな、
とも思うけど、あの時はとにかく親の愛情が感じられず、
世間体ばかり気にする彼らの偽善的な態度に腹を立ててた。

幸い、私には、学校に行けばたくさんの友達がいて、
そこに居場所があったから、家での悶々とした状況から抜け出して
発散させることができたけど、もしもあの時学校にも居場所がなかったら、
どうなっていたかわからない。

子供はもともと親が大好き。

だけど、だんだん、親が自分のことを無条件では愛してくれなくなってきて、
成績や友達や趣味にまで口出ししてきて、

「こんな成績で恥ずかしい」とか
「あの子と付き合うのはやめた方がいい」とか、
「こんな幼稚なことはもうやめなさい」とか言われて、

なんだか大好きだった親に裏切られたような気持ちになって、
愛情が深かったぶん、憎しみも深くなっていって、
思春期の不安定な心は、コントロール不能になってしまうんだ、きっと。

親を殺してしまった子供達。
きっと誰よりも傷ついているはず。

泣けてくる。



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ワールドカップの思い出 [memoirs]

もうすぐサッカーのワールドカップが開催されますが、
ワールドカップといえば、2002年の日韓共催の時、
出雲市を大会前のキャンプ地としたアイルランドチームを
取材するためにやってきた、BBC Sports のクルーの
ドライバー兼通訳というお仕事をしたことがあります。

ここ島根県は、アイルランド出身のラフカディオ・ハーンが、松江藩士の娘、
小泉節子と結婚し、その後帰化し、小泉八雲という名で、「耳なし芳一」などの
怪談を書いたということで、アイルランドとは何かと交流があります。

BBC とのお仕事を受けたのは、キャンプの3カ月くらい前だったけど、
キャンプが始まる少し前になって、二人目を妊娠していることが判明しました。
一人目の時、つわりがひどくて何も食べられず7~8キロもやせてしまった
経験があったから、はたしてちゃんと仕事をこなせるのか不安だったけど、
こんな機会は、またとないので、断らずになんとか頑張ることにしました。

つわりに耐えながらの仕事は、やはり辛かったけど、BBC Sports の人達が
とても楽しく素敵な人たちだったので、2週間の仕事をやり通すことができました。
一緒に焼き肉を食べに行ったり、カラオケにも行きました。

週末前に、アイルランドチームの監督との独占インタビューに成功し、
ご機嫌のチーフが、私に言いました。

「今日は、とてもいいインタビューができて本当に嬉しいよ。
 お祝いに、君にお休みをあげるから、明日はご主人と一緒に、
 君の両親に預けている息子に会いに行っておいで。
 車は僕たちが使っているのを貸してあげるから。」

この仕事の間、私は2歳の息子を私の両親に預け、出雲で一人でホテル暮らしを
していたんだけど、そのことを知っての配慮だったのです。
しかも、有給だよ。
なんて素敵な気配り。
感激しました。

今年も、アイルランドチームを応援するぞ。
もちろん、日本もね。 


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パンチな女子高生 [memoirs]

今日は、朝から、「久しぶりにバケットを焼くぞ!」と張り切って
7時前から生地づくり開始。

只今、二次発酵中。

昨日は、「久しぶりに折り込みパンを作るぞ!」と思いたって、チョコとキャラメル
2種類の折り込みパンを焼きました。

あの手この手で気持ちを紛らわしてる悲しき四十女。
我ながら、健気だね~。

今日の午後は授業参観。

せっかく数年ぶりにパーマをかけたのに、もうとれかかってる。
きつめにかけてもらったはずなのに・・・もったいない。

パーマといえば、私が生まれて初めてパーマかけたのは、高校生の時。
もちろん、校則では禁止されてました。
不良ではなかったけど、真面目でもなかった私。

友達の髪がいつもきれいにブローされているので尋ねると、
「実はこれ、パーマなんだ」と言う。

聞くと、彼女の家の近所の美容院で、アイロンパーマ、略して「アイパー」
かけてもらったら、とても自然に流れる、当時流行りの「聖子ちゃんカット」
できあがったと。

それなら私もと、お小遣いをはたいてパーマをかけることにしたものの、
その友達の家は、かなり遠い田舎町。
電車に乗って、そんな所まで行くのは面倒くさかったから、別の友達に、
「アイパーかけてくれる所、どっか知らん?」と訊いてみた。

すると、「郵便局の本局の中に散髪屋があって、そこでできるはずよ。」との答え。

ん? 郵便局?

とは思ったものの、アイパーをかけてもらえるんなら、と喜び勇んで学校帰りに
寄りました。 そこの散髪屋を紹介してくれた友達について来てもらって。

「アイパーかけて、自然に後ろに流れるようにしてください!」とかなんとか
美容師のオバチャンに説明して、ウキウキしながらロッドを巻かれてる17歳の私。

しばらくしてロッドをはずした髪の毛を見ると、えらいくるんくるんになってる。

これで本当に自然に流れる髪型ができるのか? と思っていたところ、
オバチャンが、くるんくるんの部分をザックザックとかなり大胆に切り始めた。

えっ? ちょ、ちょっと、どういうこと~~~!?[がく~(落胆した顔)]

でも17歳の気弱な私は、なにも言えず、無抵抗な状態で、されるがまま。
そして出来上がった髪型は・・・

パンチパーマやんけ~!![パンチ]

すごいショック

ついて来てくれた友達も、「あっちゃ~」って顔してる。

どうしよう、こんな髪型、誰が見ても変だし。
親にだってバレバレだし。

でもとにかく家に帰らないと・・・と重い足取りで家路につくと、
母はイカる[ちっ(怒った顔)]、父は笑う[わーい(嬉しい顔)]

もう散々でした[もうやだ~(悲しい顔)]

結局、翌日、姉の行きつけの美容院でパーマをおとしてもらい、ショートカットにした
聖子ちゃんのような髪型になり、結果的には、念願の聖子ちゃんカットが実現したのでした。

高校生のみなさん、間違っても郵便局でアイパーなんてかけないようにね。

2010-04-28 2010-04-28 001 004.JPG
そうこうしているうちに、バケットが焼けました~



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列車の旅 [memoirs]

先週末から私の実家に子供たちを連れて行き、今日帰って来ました。

夫が車を使うので、3人で特急列車を利用しました。
幸い、乗客が少なく、自由席でも座ることができました。

それでも次の停車駅から少しずつ乗客が増えて来たので、
私の隣の席の荷物を網棚にあげて、空けておきました。

見ていると、一人で乗っているビジネスマンの方などは、ほとんどの方が
窓側に座り、通路側に荷物を置いていて、新たな乗客が空席を探して歩いていても、
自分の荷物を網棚にあげようともしません。

そこに座って欲しくないからでしょうか?
ただ、気が効かないのでしょうか?

そんな事を考えていたら、昔々のエピソードを思い出しました。

高校を卒業して、神戸短大に進んで間もない頃、初めて一人で新幹線に乗りました。
自由席だったか指定席だったかは忘れたけど、私は窓際でいびきをかいて寝ている
恰幅のいい40代~50代の男性の隣に座りました。

間もなく、その男性が、べらめー調で寝言を言い始めました。
もしかしてこの人、ヤクザ? なんて思いながら、私はなんだか怖くなって、
隣でびくびくしながら座っていました。

しばらくして、その男性は目を覚まし、私に話しかけてきました。
最初は、恐る恐る質問に答えていたけど、話しているうちに打ち解けて、
おじさんは、車内販売が回ってきた時に、私にアイスクリームをおごってくれました。

ところが、私はおじさんとの話に夢中になって、神戸で降りなければならないのに
乗り過ごしてしまい、パニックに陥ってしまいました。

するとおじさんが、

「大丈夫。わしが次の大阪で降りるから、一緒に降りて、駅員さんに話して
 ちゃんと神戸に戻れるようにしてやるから。」

と言って、その通り、大阪駅で降り、駅員さんに事情を話してくれ、
私を無事、神戸に戻れるように手続きしてくれたのです。

そして、私はおじさんに何度も何度もお礼を言って、お別れしました。

住所も名前も訊かなかったので、そのおじさんとはそれっきりになりましたが、
今でも時々ふと思い出して、ほんわりした気持ちになります。

おじさん、ありがとう。

人は見かけじゃないね。



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泣けない卒業式 [memoirs]

今日は子供たちの通う小学校卒業式

小規模校なので、全校生徒が出席です。
式を終えて帰ってきた1年生の娘が、

「今日、泣いてる人がいっぱいいたよ。1年生の〇〇ちゃんも泣いてたし、
 〇〇君も泣いてたし、〇〇先生も泣いてたし~」

と言うので、娘自身は泣いたのかと訊くと、「いや、私はぜんぜん!」

あっさりしたもんです。

そういや、私も卒業式で泣いたことがない。

小学校の時は、卒業式の予行練習で泣き過ぎて、本番では泣きたくても涙が出ず。
中学校の時は、まったく記憶にない。

高校の時は、1年生と2年生のクラス替えの時、仲良しの友達と違うクラスになって
泣いたくせに、卒業式では泣かず。

短大の時は、ほとんどが着物か羽織袴という中で、スーツで出席したことと、
式の後、みんなと明るく写真を撮りまくったのは憶えてるけど、泣いた記憶はない。

息子の卒園式では、子供たちが卒園証書をもらいに行く時、歩く姿がロボットみたいに
ぎこちなくて、右手と右足が一緒に前に出たりするのを見て、不謹慎ながら笑いを
こらえるのに必死だったし・・・

娘の卒園式では、私の両隣のママ友が、早々とすすり泣いたり嗚咽を漏らしたり
してるのを聞いて、なんだか急にシラけてしまって、結局泣けず。

涙の卒業式ってのを経験したことがないんだよな~。

なんか、みんなが泣いてると泣けないってのもあるんだよね。
あまのじゃく?  う~ん、かもしれない。

そうそう、卒業式じゃないけど、3年前、夫の転勤で、隠岐の島から
本土に戻るフェリーでは、泣けたな~。

友達が見送りに来てくれていて、船に乗り込むまでは笑顔のお別れだったけど、
船が動き出して、だんだん島から離れて行く時、急に涙がドーーー[もうやだ~(悲しい顔)] っと出てきて
しゃくりあげて泣いてて、自分でもびっくりした。

船のお別れって独特だね。
あれは、泣ける。

さあ、明日は夫の異動先がやっとわかるぞ。
みんなと、涙のお別れすることになるのやら・・・
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愛すべきポンコツ [memoirs]

今、トヨタがリコール問題でアメリカから批判を受けています。

私がアメリカにいた十数年前も、トヨタのコンパクトカーはよく目にしました。
そんな中、私が乗っていたのは、DodgeAries という車。

留学してすぐに、大学掲示板に貼ってあったチラシを見て、$1,000 という値段に
魅かれ、すぐに持ち主に連絡しました。
持ち主と一緒に現れた車は白い大型セダン
85年製だったと思うけど、(いや、80年製だったかな?)見るからにポンコツ
走行距離も8万マイル(約13万キロ) 超えてたと思う。

それでも、その持ち主に言いくるめられ、というか、その頃はまだ英語
うまく話せなかったので、いろいろ質問することもできず、ま、$1,000 なら
格安だからいいか、と、軽いノリで買ってしまいました。

ところが、案の定、というか、ある日、友達二人を乗せて買い物に出かけた帰り、
その車が止まってしまったのです。 かなり広い道路で・・・

え? どういうこと? こんなところで止まってどうすんの?

と、パニック状態。

運のいいことに、ちょうど近くに自動車の修理工場があったから、そこまで
友達と3人で車を押して行きました。
結局エンジンベルトが切れたのが原因らしく、ベルトを交換してもらい、
再び乗り始めたんだけど、それ以後も、しょっちゅう、オーバーヒートしたり、
ある日、乗ってる最中にパ~ン!ってすごい音がして、車がガタガタいい始めたから
停めて見てみると、パンクしてました。
そういや、雨漏りもしてたな~。

車に詳しい友達に訊くと、この車で$1,000 は高すぎる、と言われたくらいのポンコツ。

アメリカは車検がないから、そんなポンコツ珍しくなくて、よく道路の真ん中で
車が止まっているのを目撃したものです。
まあ、だいたいそんなポンコツ乗るのは私みたいな貧乏留学生か、南米あたりからの
移民なんだけど。

そんなポンコツで、遠出をすることもあって、そんな時は、途中でまた止まりはしないかと
ひやひやしながら乗っていました。 
それはそれはスリル満点!

それでも留学を終えて帰国する時、$500 で売ります、とチラシを作ってアパートの
掲示板に貼っていたら、車を見たい、と連絡がきて、結局$300 まで値踏みされたけど、
無事、売れました。 やっぱり南米からの移民だったけど。

あんなポンコツ、日本じゃなかなか乗れません。
いろいろ問題があったぶん、思い返すと、とっても愛しい車でした。

それにしても、あの車買った人、その後、無事だったかな~?


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終わりよければ・・・ [memoirs]

昨日の新聞に、かつてエイズ患者の恋人を窒息死させた、と告白した
英BBCの男性司会者の記事が載っていました。

同性愛者の彼は、恋人との間で、痛みがひどくなった場合には安楽死
させると約束していたのだそうです。

窒息死でも安楽死と言えるのかどうかわかりませんが、延命治療
望まない恋人のために、苦しい選択をしたのだと思います。
それは究極の愛の形なのかもしれません。

同じ日の新聞に、延命治療に関するアンケートの結果が載っていて、
回答者の7割が安楽死を希望するという結果でした。

私ならやはり、痛みに耐えながら延命治療を施してもらうよりは、
例え死期が早まっても、痛みを和らげてもらいながら、安らかに死んでいきたいと
思います。

ただ、残される家族にとってはそう簡単にはいかないのでしょう。

私の祖父は、89歳の時、癌でなくなりました。
祖父は、生まれて間もなく養父母にもらわれ、愛情いっぱいに育てられ、その後
結婚し、養父母を失くした後も、彼らと一緒に過ごした家をとても大切にしていました。

祖父の癌が末期となり、もう治る見込みもない中、たくさんの管に繋がれながらも、
日に日にやせ細っていきました。
読書家で、まったく呆けることのなかった祖父は、自分の命がもう長くは
ないことを十分すぎるほど悟っていたと思います。

ある日、祖父は自分に繋がれた管を全部抜きとってしまいました。
そして、あの住みなれた家に帰りたいと泣きました。

長男である父は、それはできないと言いました。

祖父の家は山奥にあり、そこに連れて帰った所で十分な世話ができないし、
何かあった時にすぐに病院に連れて行けないと。

結局、祖父は管に繋がれたまま、病院で亡くなりました。

何もしてあげられなかった自分が、父を責めることはできないけれど、
きっと祖父は無念だったと思います。
大好きだったあの家で死なせてあげたかった。
それだけで、彼の最期はまったく違うものになったんじゃないかと思います。

23歳くらいの頃、私は大失恋をして、都会を引き上げて実家に帰ったことがありました。
そんな時、道路をさまよっている子犬をみつけ、思わずうちに連れて帰ってしまいました。
動物嫌いの両親に見つからないよう、私の部屋で密かに飼っていましたが、いつまでも
そんな状態で飼えないので、悩んだ末、田舎の祖父母の所へその犬を連れて行きました。 

どうかこの犬を飼って欲しいとお願いした時、自分たちはもう年だから動物の世話も
なかなかできないと渋る祖母に、「まあ、飼ってやろうや。」と祖父が言ってくれ、
私の名前にちなんで「ケイ」と名付け、とてもかわいがってくれました。
ケイはその後、子犬を産んだ後、どこかにいなくなってしまいましたが、その子犬に
エルという名をつけて、叔父の家族が大事に育ててくれました。

末期癌になった祖父を見舞った時、私がアメリカに近々留学すると言うと、
彼は私の手を握り、「そんな遠くに行くなや」と淋しそうにつぶやきました。
私はそんな祖父が大好きでした。

祖父が亡くなり、私がアメリカに渡った後、大学の専攻を心理学から看護学に変えたのも、
当時読んだ「病院で死ぬということ」(山崎章郎著)に感動し、ホスピスで働きたいと
思ったからです。
この本を読んだ時、やはり祖父の姿が目に浮かびました。

そしてやはり、人はいくら生前が幸せでも、死ぬその間際が不幸なら、幸せな人生だったと
言えないのではないかと思いました。
逆に、例えそれまでの人生が不幸でも、自分の好きなものに囲まれ、希望どおりに
死んで行けたなら、幸せな人生だったと言えるんじゃないかと思います。

私の愛する人たちが、そして私自身も、尊厳ある死を迎えられたら、それが一番
幸せなことだと思います。




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突然のトラウマ [memoirs]

去年5月に、ナイフを持って押し入ってきた強盗に襲われました。

日頃バドミントンで鍛えた腕力でナイフを奪い取り、軽症で済みました。
その後、10月に裁判を終え、ひと段落つき、新年を迎えました。

もともと、一人で海外へ渡って生活するほど、たくましい私。
アメリカでもアパート空き巣に入られたり、高速道路で友人の運転する
車がコントロール不能になって路肩に激突し、あわやの大惨事になりそう
だったり、と、いろいろ危ない目には遭いました。
でも、私自身、そんな経験をも「貴重な経験」として、楽しんでいるところが
ありました。 まあ、命あってこそなんだけど。

だから、この強盗事件の後も、みんなが心配してくれるのが
申し訳ないくらい、元気でした。

それが、数週間前、宿舎の階段を息子と登っている時、年配の男性に
呼び止められ、振り向くと、突然ナイフを出してきて襲って来て、
私は先に行ってしまった息子の名前を必死で呼び、呼んでいる最中に
目が覚めました。

そう、夢だったのです。

でも事件以来、こんな夢を見たのは初めてでした。
事件後、よく友人に、「夜、眠れる?」なんて訊かれたけど、
眠れないなんてことはなかったし、悪夢を見ることもありませんでした。

全然平気、と思っていたし、それも別に無理してたわけじゃないんだけど、
ここにきてこんな夢を見るということは、やはり心のどこかにトラウマ
かかえているのかもしれません。

そして、昨日の夕飯の時。
娘の手が急に止まって、じっと一点を見つめたまま動かなくなったのです。
どうしたのかと訊いてみると、ポロポロと涙を流し、

お母さんがいなくなった時の事を考えたら悲しくなってきたんだもん。
 また、お母さんが泥棒に刺されて死んだらどうしようって思ったら
 悲しくなってきたんだもん。」

と言って大泣きするのです。

なんで急に今頃?とは思ったけど、この子もやっぱりいつもは元気に
してても、あの事件の影響で、心のどこかに不安を抱えているのかな、
と思いました。

トラウマって忘れた頃にやってくるんですね。
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震災に思う [memoirs]

阪神大震災から15年ということで、最近よく新聞で特集記事を目にします。

今朝は、現在、大学で演劇を学び、少しずつテレビ映画に出演する
ようになってきた、大石彩未さんという女性が小学校2年生の時に
書いた貼り紙についての記事を読み、感動で涙が出そうになりました。

震災時、京都で暮らしていた彼女は救援物資を運ぶ父親に連れられ、
被災地の神戸へ行き、その際に、自分で書いた貼り紙を被災した家々に
貼って回ったそうです。

貼り紙には、
「地震で家をなくしたお友達、しばらくの間私の家に来てください。」
という文章と、自宅の電話番号が書かれていました。

結局、電話してきた人はなく、「何もできなかったという思いが残った」
そうですが、その時の、「人に希望を与えたい」という思いが、
今、俳優を目指す原点になったということです。

阪神大震災の時、私はアメリカにいました。
語学留学を終えた後、観光ビザを取得して6ヶ月間友人のアパート
居候していました。

その日のCNNのニュースで、神戸で地震があったことを知りました。
最初は数百人と報告された死者がだんだん膨れ上がり、数千人になった
ところで、これは本当に大変なことが起こったと思いました。

神戸は私がアメリカに留学する前に住んでいた所。
友達もたくさんいます。
すぐには連絡がつかないので、しばらくして少し落ち着いてから
連絡を取ると、幸い皆無事でした。

でも実際、命を奪われた方、家を失くされた方、大切な家族や友人、
恋人をなくされた方のことを思うと、やるせない気持ちになります。

あの震災で学んだことの一つは、物質的財産は儚いということです。
どんな立派な家を建てたって、地震や火災であっけなく失ってしまいます。
だから、物にはあまりお金をかけずに、知識や経験のためにお金を使いたい
と思いました。

うちは転勤族ということもあって、今は宿舎暮らしをしていますが、
それでもやはり子供が大きくなるにつれ、みんな家を建てたり、買ったり
しています。

私も、子供が中学生くらいになったら、あまり転校させるのも良くないだろうし、
もうちょっと部屋数の多い所に住みたいな、とは思いますが、持ち家が
欲しいとは思いません。 
このままずっと賃貸でいいと思っています。

せっかく建てた家が、ローンを払い終わらないうちに地震で壊れてしまったら、
なんて考えてしまうのです。
この地震列島日本では、いつどこで地震が起こるかわかりません。

失う物がなるべく少なくなるよう、持ち物も少なく・・・

と思っているのに、引越しの時にはいらないものが山ほど出てくるこの矛盾。

なんとかしなければ・・・



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不倫に悩む友へのメッセージ [memoirs]

「確かに、あなたのところは、ご主人の親がでしゃばり過ぎだし、
 育った環境も違い過ぎるし、あなたが不満を持つのも当然だと思う。
 
 だけど、それでも彼と結婚をすることを決めたのは自分。
 たとえ断れる状況じゃなかったと言っても、やっぱり決めたのは自分。
 いい加減な気持ちで結婚したとしても、結婚したからにはやっぱり自分の行動に
 責任を持たなくちゃいけないと思うんだ。

 しかも子供まで作ったんだから、なにがなんでも幸せを築く努力をしないと
 いけないと思う。
 その努力というのは、ただご主人の高圧的な態度に黙って我慢するということではなくて、
 お互いに不満をきちんと話し合って妥協点を見つけるということ。

 そういう意味では、あなたは今まで、ちゃんと努力をしてこなかったのかもしれない。
 ご主人が怖かったのかもしれないけど、ただ逃げていただけかもしれない。
 
 今回、ご主人といろいろ話し合ったことはすごくよかったと思うけど、
 本当は、それをもっと早くしなくちゃいけなかったんだよね。
 ご主人は、やっぱり今までそうやって自分に対してちゃんと不満を言ってくれる人が
 いなかったんだと思う。

 今回、自分の愛する人に言われて、かなりショックだったとは思うけど、それでも
 ちゃんと変わろうとしているところが、すごく素直で素敵だと思うよ。
 前回言えなかった不満も、ちゃんと二人の時間を持って全部言ってしまう
 べきだと思うよ。
 
 私には、ご主人の気持ち、ちょっぴりわかるんだ。
 うちの夫も何も言わずに耐えるタイプだけど、私としては、不満をちゃんと言って
 欲しいし、ちゃんと話し合いたい。それなのに、言いたいこと言わないで、
 どんどん気持ちが離れていくのがすごく悲しいと思ってた時期があったんだ。

 だから、ご主人にもう一度チャンスを与えてあげて欲しいな。
 不倫相手のことを私はあまりよく知らないけど、正直言って私はあまり信用してない。
 あなたのことを本当に愛しているのなら、今、彼は身を引くべきだと思う。」



夫や妻に対する不満や淋しさから、そんな自分を救ってくれる異性を求める
人も少なからずいると思います。
私にもそんな時期がありました。
だから、このメッセージは自分に向けたメッセージでもあります。

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私を変えた夜 [memoirs]

高校3年生の3学期。

勉強が嫌いだったから、大学受験なんてしたくないと思って
なんとなく専門学校でも行こうかと考え、大阪にある
ビジネスかなんかの専門学校に見学に行くことにしました。

その時、仲の良かった友達も同じように考えていたので、
私の両親と、その友達と一緒に、6時間のドライブをして大阪に行きました。

見学したのがその日だったのか、次の日だったのかは忘れたけど、
とにかく大阪の市街地に一泊したのです。

二部屋借りて、夕食後、私の両親と私達とで分かれました。

部屋に入ると友達が、
「今から街に繰り出そうよ!」

と言うのです。

「え~、でもうちの親に見つかったら大変・・・」

「今からそっちの両親に、『もう疲れたから寝ます』って言いに行けば大丈夫。」

ということで、うちの親におやすみの挨拶をしに行って、いざ夜の街へ。

私にとっては初めての都会の夜。

何のためらいもなくすたすたと歩く彼女について行く私。

初めてのナンパも経験しました。

男の人に声をかけられてうろたえる私とは対照的に、きっぱりとした態度で
男たちを振り切る彼女。
なんだかそんな場面に慣れているみたい。

それまで私は、親に反発はしていたものの、どこかで、いい子で
いなければいけない、という思いがあって、ワルになりきれない
中途半端な状態でした。

一方彼女は、学校でも派手な方で、顔もきれいでスタイルもセンスもいいし、
勉強しない割に成績も良く、マラソンも早い。
物おじしない性格で、男性に対しても積極的。

どうして彼女が私と友達になったのか、不思議なくらい。


繁華街を歩いて、何軒かのショップに寄っただけだけど、
私にとってはとても刺激的な夜でした。

そして、私の中のなにかがはじけました。

親の呪縛から解けたような解放感。

あの夜の経験がなかったら、その後、一人でアメリカに渡るような
私はいなかったと思います。

結局、私も彼女も、その専門学校には行かず、関西にある別々の
短大に進みました。

彼女は卒業後、地元の銀行就職し、そこで職場不倫をし、
略奪愛で今の夫と結婚し、2児の母をしています。






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結婚のタイミング [memoirs]

私が結婚したのは34歳の時。

遅い方だと思うけど、私にとってはちょうどいい時期だったのかな。

だいたい友達は25歳前後で結婚していき、取り残されたような
淋しい気持ちになったこともありました。
いい人との出会いを切に願っている時期もありました。

でもそんな時って、なかなか「この人(Mr.Right)」と思える人に出会えないんですよね。

付き合ってる人はいても、その人が「Mr.Right」じゃないことはわかっていたから、
このままじゃいけないと思いながらも、今が幸せならいいという思いもあって、
長い間、断ち切ることができない状態が続いていました。

その頃勤めていた英会話学校ではアシスタントからシニアマネージャーに昇格し、
一つの学校の運営を任され、やりがいはあったけど、ノルマに追われ、
休みの日も仕事の事が頭から離れないような生活で、疲れていました。

そして27歳の時、仕事も恋愛も一区切りつけて、アメリカに渡りました。

結婚なんかしなくてもいいと思いました。
結婚という形にはとらわれない。
大好きな人とずっと一緒にいられれば、それでいいと思いました。
何歳になってもいいから、いつか「大好きな人」と出会えればいいと。

アメリカでの生活は自由で快適でした。
ずっとここに居たいと思いました。
だから大学に行って仕事を見つけていつか永住権を手に入れようと思いました。

大学では最初、カウンセラーになりたくて心理学を専攻しました。
だけど、その頃読んだ、「病院で死ぬということ」という本に感動し、
看護師になってホスピスで働きたいと思い、看護学に専攻を変えました。




病院で死ぬということ (文春文庫)

病院で死ぬということ (文春文庫)

  • 作者: 山崎 章郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1996/05
  • メディア: 文庫



必死で勉強して、優秀な成績を修めることができ、教授からの推薦ももらい、
難関を突破して専門コースに進むこともできました。
さあ、これから、という時、迷いに迷った末、結婚を決意して、日本に
帰ることにしました。

その時の彼(今の夫)は、私が大学留学のための資金を貯めるために
働いていた職場で出会った人で、日本にいる間はお付き合いはしていなかったけど、
私がアメリカに渡った後、メール交換をし始めるうちに、特別な存在になってきました。
何度かアメリカに会いにも来てくれました。

やっと自分のやりたいことが見えてきて、その夢に向かって
せっかく頑張ってきたのに、ここであきらめてしまうのはもったいないと
思いました。

だけど、その時私は33歳。
このままアメリカで大学の勉強を終えるためにはあと2年かかる。
しかも2年後に無事看護師試験に合格したとしても、その資格は日本では
使えない。(今はどうか知らないけど、当時は使えませんでした。)

本当に苦しい選択だったけど、日本に帰ることを選びました。
正直なところ、彼と離れていることに不安を感じるようになり、
勉強が手につかなくなってきていたんです。

結局、その時が私の結婚のタイミングだったんでしょう。
結果、夫とは結婚後、いろいろあったけど、二人のかわいい子宝に
恵まれ、今は穏やかに楽しく暮らしています。

人は、夢に向かって頑張っている時はやはり輝いているのでしょうか。
私が、結婚を意識しなくなって、そうやって頑張っている時って、
すごく男性にモテました。あれが私の全盛期だったな・・・ふふ・・・
その中でも、今の夫を選んだということは、運命的な何かが働いたのかな。

人生やり直せるとしたら、また同じ人を夫に選ぶか、と訊かれたら、
正直、わからない。
あの時、違う選択をしてたらどうなってたかな、ってよく思います。

でも、やっぱりあれが私の結婚のタイミングで、これからこの幸せが
続くかどうかは私次第なんだと思います。





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頑張ってるあなたへ [memoirs]

そろそろ受験シーズン到来ですね。

私くらいの年代のお母さんは、高校受験や大学受験をひかえてる
お子がいたりして、結構頭を悩ませているみたいです。

高齢出産の私は、そんな友達の話を聞いて今後の参考にさせてもらうばかり。

私自身は、高校の受験勉強なんてほとんどした覚えがないし、
短大だって、受験勉強せずに済むように、推薦で行けるようなところ探して、
それでも一応試験は受けたけど、そんな必死で勉強しなくてよかったし。

かなりラク~にテキト~に人生送っていました。

だって、自分のやりたいことがよく見えてなかったから。
というか、やりたいことがなんなのか、深く考えてなかったから。

だから、短大入っても、ろくに勉強せず、なるべくラクなゼミ選んで、
ファッションと遊びのことばっかり考えているようなアホな女子大生でした。
それでもあの頃はバブルがはじけるちょっと前で求人はたくさんあったから、
適当にアパレル関係の会社に就職して結構いい給料もらってました。

その後、自動車会社、英会話学校と転職し、27歳でアメリカ語学留学し、
そこで、大学に行くためにすごく頑張ってる魅力的な日本人にたくさん出会い、
私も大学目指すことに決め、いったん日本に帰って、昼夜働いて留学費用稼ぎながら
TOEFLのための勉強に励みました。

やっぱり人間、目的を持つと強いのです。

初めて受けたTOEFLで550点も取ることができ、自分で探した留学先に
必要書類を送って、無事受け入れてもらえることが決まった時は本当に
嬉しかったです。[わーい(嬉しい顔)]

そして希望と不安を胸にアメリカへ旅立ちました。

しかし、いくらTOEFLが550点取れたからって、大学の授業にすんなり
ついていけるわけがなく、最初は本当に大変でした。
大学で使ってるテキストはどれもこれも厚さが5㎝くらいある分厚い
ハードカバーのもので、それを一日100ページくらい読まなきゃいけない。
教授の言ってることがちゃんと聞き取れない。

ほんと、泣きそうでした。[もうやだ~(悲しい顔)]

でも頑張りました。
だってあんなに一生懸命働いて留学費用貯めたんだし、もう歳も歳だから
ここであきらめて帰るわけにはいかないし、やるっきゃなかったのです。

授業の時は教授に許可を取って、録音させてもらって、帰ってから
何度も何度も聞いてディクテーションしました。

私の専攻は nursing 、看護学だったから、覚えなくちゃいけない専門用語が
しゃれにならないほどたくさんあって、しかも毎週クイズ(小テストのこと)
がある。

いちばん最初のクイズで、私、結局まったく覚えられなくて、回答用紙
を出すことすらできなくて。
それで、あとになって教授の所に行って、

「解答用紙出さなくてごめんなさい。ぜんぜんできなくて出せなかったんです。
 でも、次のクイズはこんなことがないように絶対に頑張ります。」

って、言っちゃったのです。

言ったからには頑張らなきゃと思って、必死に勉強しました。
そしたら、次のクイズ、満点だったんです。

それからです。 自信がついたのは。
I can do it!

やればやっただけ結果はついてくるんだよね。
結果がついてくると、勉強がすごく楽しくなってきて、
もちろん徹夜なんかすることも何度もあって大変ではあったけど、
毎日がとても充実してました。

一生に一度は、そうやって必死に勉強するっていう経験をした方が
やっぱりいいと思います。

私はかなり遅くなったけど、ああやってすごく頑張った時期があったから、
これからもなんでも乗り越えられるような気がしています。

受験生の君、そして今目標に向かって頑張ってるあなた、
You can do it!





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ムダ毛は女の命取り? [memoirs]

小学一年の娘がべそかいて私に言いました。

「ひーちゃんがねー、いっつも私のスカートめくって
毛が長いねーっていうから、すごくいや。」

きたかー、と私は思いました。

私も毛深くて小学生の頃、からかわれました。
高学年になってからだったけど、理科の授業で
ショウジョウバエの習性に関する番組をみんなで観たのです。
アップで映されるショウジョウバエの足は毛で覆われていました。

その日から私は「ショウジョウバエ2世」と悪ガキ達から
からかわれるようになりました。

もう一人私よりちょっとだけ毛深い女子がいて、その子は
「ショウジョウバエ1世」

ひどいでしょ~!!

でも私は毎年学級副委員長さんに選ばれるような、どちらかと言うと
人気者だったし、あまりくよくよしない強い女子だったから、
「うるさい、チビ~!!」 などと言って、負けてませんでした。

それでもやっぱり高校生くらいになると気にして時々剃ったりしました。
あの頃は、スカートの長いのが流行ってたから、隠すことができて
よかったわ~。

大人になってからは、もっと気にするようになって毎日のように
剃り始めて、時々抜いたり除毛剤使ったりしてるうちに
肌は荒れて毛もどんどん濃くなってきて、
触るとガジガジするようになってしまいました。

そんな頃見たエステティックサロンの広告のコピーにこんなのがありました。

「髪は女の命、ムダ毛は女の命取り」

ガ~~~ン

すごい衝撃でした。

最近は割と安く永久脱毛ができるみたいだけど、当時はすごい高額だし
技術もまだ進んでなくて効果が不確かだったから、そこにお金を
注ぎこもうとは思わなかったけど、毛深く生まれた自分の運命を
恨みました。

「神様はどうして私をこんな特別にお創りになったの?」なんて。

でもね、留学中に発見したけど、外国には毛深い女子いっぱいいるよ
平気でへそ毛出してへそ出しルックしてるアフリカ系の女子見たし、
金髪の子も色が薄いから目立たないけど、結構手足の毛長いよ。

男子だって胸毛もじゃもじゃだし、それほど毛に神経質じゃなくて
私には居心地よかったわ。

今でも毛深い悩みはかかえているけど、娘にも強くたくましく
生きていって欲しいわ。 
そしてそんな悩みも受け止めてくれる
素敵な男性と出会って幸せになってね。








裁判員裁判に参加して [memoirs]

約一カ月前、裁判員裁判に参加しました。

被害者として。

5月に強盗致傷の被害に遭いました。
幸い怪我は軽くて済みました。
犯人は初老の男性で、借金取りに追われ、金策尽きての犯行だったようです。

最初は裁判に参加するつもりはありませんでした。
もう関わりたくない、という思いもあったし、
事件の事はすべて警察や検察でお話ししたので、これ以上
私が関わる必要はないと思ったからです。

でも、少し時間が経って冷静に考えられるようになると、
被害者当事者である私の知らないところで裁判が進んで行くのは
とても不自然に思えてきました。

やはり自分が関わった裁判を見届けたい。

それに裁判員裁判になると、一般の市民である裁判員の方々に
どのように訴えるかによって量刑が変わってくると聞いて、
被害者としての意見をきちんと聞いてもらった方が
公正な判決が下されると思いました。

結果、判決は ほぼ検察の求刑通り となりました。

その判決を聞いて私は、「よかった~」とは思えませんでした。
とても複雑な気持ちになりました。
私が被害者として意見陳述したことによって刑が重くなったのかもしれない。
そうだとしたら、今後の被告の人生に私もなんらかの 責任を負うような、なにかとても重い気持ちになりました。

もちろん被告の犯した罪は許されるものではありません。
だけど、彼はそれまで真面目に生きてきた人で、根っからの悪人ではありません。
借金のせいで、家庭でも冷遇され孤独だったようです。

裁判の中でそういった事実が明らかになるにつれ、
私はとてもやるせない気持ちになりました。

そしてこの判決。

とても複雑です。

最近は被害者通知制度というものがあって、
希望すれば、服役後の被告の様子を知ることができます。
私はこの制度を利用することにしました。

そして、彼が無事服役を終え、まっとうな人生を歩んでくれることを祈っています。


HUGS & KISSES [memoirs]

アメリカ留学して間もない頃、3か月ほどホームステイをしたんだけど、
その家は、当時30代半ばの夫婦と4歳の男の子と2歳の女の子の家族で、
敬虔なクリスチャン。

ご主人は空港の管制官を養成する学校の教官で、奥様は出版社で本の
編集をするお仕事をされてたけど、当時は専業主婦状態。

この夫婦がとっても仲がよくて、当時独身だった私にとっては理想の夫婦。

ご主人は朝5時過ぎに仕事に行って昼3時ごろ帰って来るんだけど、
お弁当は自分で作って持って行きます。 
そして帰ってきたら子供たちの世話。

食事の時は必ず、妻の料理を褒めます。
一口食べて「This is good!」って必ず。

後片付けもしてくれます。 
私が手伝おうとすると、「これは僕の役割だから」って断られました。

子供のしつけに厳しくて、食事中にお行儀悪いことしたら、まず口頭で注意。
それでも聞かなければ個室に閉じ込めます。 私からすると、何もそこまで、
と思うんだけど、しばらく経ってから部屋から出して、今度は子供としっかり
向き合ってどうしてそれが悪いことなのかを諭して、もうしないと約束させて、
その後が必ず 
hugs and kisses なんだよねー。

素敵でしょ〜。

だから子供たちはどんなに父親が厳しくても、どんなに叱られようとも、
お父さん大好きでした。

今ではその時4歳だった男の子が20歳くらいになってるんだけど、彼は今
管制官になるために、お父さんが教える学校に通うことになってるらしい。

お父さんの事、尊敬してるんだねー。

ご主人が出張でしばらく留守にする時は、空港に家族でお見送りに行って、
そこでは夫婦が「I'll miss you」「I love you」と言いながら 
hugs & kisses

いいな〜。

これは決して表面的なものではなく、実際彼女は夫がいない間、私に
「早くBobが帰って来ないかしら・・・」ってしきりに言っておりました。

私なんて夫が打ち上げなんかで帰りが遅くなるって聞いただけで、心の中で
花火打ち上げてバンザイしてるっていうのに・・・  

どこからくるの、この違い?

そりゃ、やっぱり夫の貢献度じゃないかい?

私だって新婚の頃は夫が仕事行く時 a hug and a kissくらいしてたんだけどね。
そのうち、居ても言わなきゃ手伝ってくれない、夜も疲れてすぐに寝てしまう、
そんな夫から気持ちが離れて行くのも自然の成り行きのような気がするんだけどな。

特に子供が小さくて手がかかる頃は、不満ばっかりたまってました。
今は二人とも学校で私にも余裕がでてきて、心穏やかでいられるようになったけど。

夫婦も親子も言葉と体のコミュニケーションが大事だよね。

欧米のように気軽に「I love you」が言えて hugs & kisses ができたらいいのにな。

子供にはたまに「大好きだよ!」って言ってギュ〜って抱きしめたり
チュってしてるんだけど、夫には言えないな〜。できないな〜。
昔は言ってたんだけどな〜。 
付き合ってた頃の、あのトキメキ、大好きっていう気持ちも復活させたいな〜。

夫とはもうムリか・・・?

でもまあトキメキはなくても、なにかもっと違う年季の入ったものに変わって
いってるんだろうなー。 なんて言うの? 深い絆? よくわからんけど。

それはそれでいいんだろうな。 




Michael Jackson [memoirs]

行ってきました、マイケル・ジャクソンの映画

彼の存在を知ったのは私が中学生の頃。
当時私は「たのきんトリオ」のトシちゃんこと、田原俊彦の大ファンだったんです。 

今は全然興味ないけど・・・

で、そのトシちゃんがマイケルを崇拝してたというわけで。

その後、私が田舎の高校から神戸の短大へ進むと、当時ディスコが流行っていて
(今でいうクラブ?)、繁華街なんか行くとよくディスカウントチケット配ってて、
これは行かなきゃ損!って思って行きまくりました。 同じ下宿の同じく田舎から来た友達と。

今思うとすごいダサい格好してたと思うけど、自分なりにいけてると思ってた自分が
今更ながらイタい。

でも楽しかった〜。 無心に踊ってたな〜。 
マイケルの「Rock With You」とか「Off The Wall」なんかよく流れてたかな〜。

そしてまた時は過ぎて、私の米国留学時代。

これはもう27歳くらいになって、いわゆる結婚しないかもしれない症候群」とでも
いいましょうか。 なんかすべてかなぐり捨てて海外へ逃避行したかったのかな〜。

とにかく、最初はマイアミにある大学付属の英語学校に行きました。
そこで、先生が教材として聴かせてくれたのが「Heal The World

本当に素敵な曲。  メロディもいいけど、歌詞がいい。 涙が出そうになります。


まあ、それでもマイケルの大ファンというわけでもなく、CDも持ってなかったんだけど、
今回、この映画を観終わって、無性にCDが欲しくなって、購入しました。

「Michael Jackson King Of Pop Japan Edition」 ていうヤツなんだけど、
これ、値段安いけど(アマゾンで¥1,548) 私の好きな曲がいっぱい入ってて
とってもお買い得でした。

夕方ご飯作りながら聞いてたら、子供たちが踊りだして、私も一緒になって
3人で踊ってました。 嬉しかった〜。

子供たちは運動会の応援合戦でマイケルの「Thriller」を踊ったからよく知っているのです。

「Heal The World」もちょうど昨日の学校の朝礼で、教頭先生が聴かせてくれて
歌詞でどんなことが書かれているかをみんなにお話ししたらしく、すごくタイムリーだったみたい。

私にとっては思い出深いとっても懐かしい曲なのに、子供たちと共有できて
とても楽しくて幸せなひとときでした。